陶器で作ればいいんじゃない?
「日本の香水を入れるのに、どうして西洋のガラスの香水瓶を探しているの。陶器で作ればいいんじゃない?」
それは私にとって、コペルニクス的発想でした。
その頃の私は、日本らしい香りを作りたいと言いながら、入れる器はガラスの香水瓶と決めてかかっていました。
三月に、この香りJOURNALでパリで香水瓶を探した話を書きました。日本にも、パリにも、条件に合うガラス瓶は見つかりませんでした。
なるほど、と思いました。そして香水を納めるなら、染み出るかもしれない陶器よりも、肌の緻密な磁器がよいだろう。美術館に行ったり、図録で調べると、人形の形をした西洋の磁器の香水瓶はありましたが、蓋はコルクだったように思います。
それでは香水瓶として美しくなく、日本のものづくりの精密さを伝えるにも物足りない、と思いました。

容れ物のデッサンを何度も重ねているうちに、少しずつ、壷のような形になっていきました。そこから茶壷にたどり着くのは、私にとっては自然な流れだったと思います。
十二歳から茶道を習い、大きな茶壷に紐飾りを施して床の間に据えるお稽古を、先生のところで何度も見てきました。
また、大人になってから、母の本棚に『小習事全伝』という本を見つけました。
その表紙に茶壷の写真が載っていて、もしかしたら、それを見た記憶も茶壷香水のきっかけの一つだったのかもしれません。
一人に話すと、次の人がいた
その頃の仕事場は、職人や芸術に関わる人たちが自然に集まる、小さなサロンのようでした。「香水を茶壷に入れたい」と話してみると、面白がってくれる人がいました。
チームがあったわけではありません。一人に相談すると、「だったら、この人に聞いてみたら」と次の人を紹介してくれる。訪ねると、また別の人につながる。窯元をいくつもたどったのも、その中でのことでした。
窯元、組紐、真田紐、桐箱、包み布、香水の充填。壁に当たるたびに伝手をたどり、教わったことは実際にやってみました。本気だということが伝わると、「だったら、こうしたらいい」と、また知恵を貸してくれました。
絵柄は、有田の職人が、小さな器に収まるよう工夫してくださいました。紐飾りは、私が学んだ裏千家の茶壷飾りと同じ結びになるように、京都の組紐職人にお願いしました。

いちばん苦労したのは、口だった
形以上に難しかったのが、実は口の部分でした。
ガラスの香水瓶なら、ボトルとストッパーを磨り合わせることができます。けれども焼き物は、焼成するたびに、一つずつ微妙に形が変わります。研磨して一個ずつ合わせ、絹を巻いて漆を塗る加工もしました。
水を入れた試験では、漏れませんでした。ところが、香水の中身であるエタノールを入れてみると、じわじわと外へ伝ってくる。
そこで、ネジ式の茶壷が生まれました。それまでは、蓋に紙をかぶせて、首のところに紐を掛けていましたが、これでは、紐をほどかないとキャップを外せません。ねじ式の小さいキャップにオーバーキャップをかぶせる形に改め、そちらにくびれを作ってそこに紐を組むことにしました。これによって、茶壷の紐飾りを解かなくても、香水を使えるようになりました。
本来の茶壷飾りは、結び方を知らない人が、簡単にほどいて戻せるものではありません。けれども香水は、毎回使わなければならないものです。
伝統の姿を壊さずに、現代の商品として使えるようにする。

ここで、もう一度問題が起こりました。ようやくできた。そう思って、フランスの香料会社へ持って行き、そこで減圧試験をしました。ところが、漏れました。
窯元と原因を探すと、焼き物は蓋と本体が一組ずつ決まっていて、「全部開けて充填し、あとから適当に蓋を戻す」という製造方法が取れないことが分かりました。
パッキンの厚みなどを改良し、飛行機で運ぶことを想定した条件でも耐えられるようにしました。今も、充填のたびに一個ずつ検査をして、合格したものだけを販売しています。
風車に向かって
先に販売価格を決め、そこから原価を逆算したのではなく、発売日が先に決まっていたのでもありません。マーケティングにはずいぶん疎く、自分の想像の中にある、まだこの世にないものを追いかけて、突進していった頃でした。
私は自分でドン・キホーテのようだと思っていました。
改良した茶壷を、空のままフランスの香料会社に百五個送りました。人の手に渡った完成品は、十個ほどです。
パリの日本国総領事館にも、茶壷香水を持って行きました。
といっても、ここは特別な伝手があったわけではありません。お世話になっている香料会社の社長に「やってみろ」と言われたときに「知り合いがいない」と言うと、
「受付に電話して、面会の約束を取ればいい。こういう仕事をしています、と言って持って行けばいいよ」と言われました。
そんなことで会ってもらえるのだろうか、と少し腰が引けましたが、電話をしてみると、意外なほどあっさり会ってくださいました。その社長に報告すると、「Well done!」と言われました。
こういうことも、私は一つずつ学びました。
残りの九十五個は、長いあいだ、空のまま預けられていました。毎年グラースへ行くたびに、そこの社長から「さとり、あれはどうするんだ?」と聞かれ、「もうちょっと、もうちょっと」と答えていました。

そして2019年秋には、フランス・グラースの国際香水博物館に、この香水を収蔵していただきました。日本とフランスの香水文化をつなぐ方が、間を取り持ってくださいました。
このときは日本で香水を充填し、完成した状態で「藤、梅、桜」の柄の3種類を飛行機に載せて、自分で持って行きました。
その後ほどなくしてコロナ禍が始まり、博物館もしばらく閉鎖されました。収蔵後のお披露目については、結局そのまま立ち消えになってしまったように思います。
言葉ありき、ではなく
私はフランス調香師協会に所属しているので、フランス語が堪能だと思われることがあります。けれども実際は、個人レッスンで2年ほど習った、初級レベルです。
フランスに行った時は、日常生活に困らない程度の会話はできましたが、仕事ではもっぱら英語を使っていました。その英語も、流暢というほどではありません。
それでも、オランダにもスイスにも、一人で行きました。パリでも、本当に大切な場面だけは通訳を頼み、それ以外は自分で歩き、自分で訪ねました。
香水瓶を探していたときは、朝からパリ11区を歩き回り、通りの名前を一つずつ写真に撮りました。夜、ホテルへ戻って、その日の写真を見ながら地図を黒く塗っていく。翌日は、まだ歩いていない通りへ行く。おそらく、ほとんど全部の通りを歩いたのではないかと思います。
語学が達者だったわけでも、香料会社でのキャリアがあったわけでもない。けれども、私には作った香水がありました。
そして、伝えたいことは山ほどありました。こちらが本気で何かを伝えようとしていると、相手も分かろうとしてくれました。
あの情熱がどこから出てきたのか、自分でもよく分かりません。
最初は、ただ、やってみたかった。そのうち、やらなくちゃ、と思うようになりました。さらに進んでいくうちに、自分がやっているというより、何か見えない力に動かされているのかもしれない、と思うことさえありました。
けれども、ひとりでは何もできません。ただ待っていても、誰も助けてくれません。手を伸ばしたから、つかんでくれる人がいた。あの頃は、そんなことの繰り返しでした。

二十年あまりを経て
子どもの頃、私は親に手を引かれて、海外をあちこち旅したことがあります。
けれども、それは受け身の旅でした。
大人になってからは、自分の足で異国の地を歩きました。会いたい人に会い、聞きたいことを聞き、行きたい場所へ行く。茶壷香水は、そのたびに新しい扉を開いてくれたのだと思います。。
本当は、この茶壷香水を今年の四月に改めて販売する予定でした。
けれども、急いで出すより、時間をかけて準備を整え、サロン ド パルファンでお披露目しようということになり、発売を半年延ばしました。
10月7日、茶壷香水を世に送り出します。
発信:PARFUM SATORI
創業者・調香師 大沢さとり
TITLE:茶壷香水は、こうして形になっていった
URL:https://parfum-satori.com/apps/note/chatsubo-perfume-making-story/
■関連動画
TITLE:【茶壷香水の取り扱い方】茶壷を開くところから始まる香りの体験|PARFUM SATORI
URL:YouTube https://www.youtube.com/watch?v=gEap9T2Py2s&t=9s
TITLE:【真田紐の結び方】茶壷香水を桐箱に美しく納める
URL:YouTube https://www.youtube.com/watch?v=hX_7zM3K4wU

