香りはなぜ変化するのか?
────山椒や桂の葉にも共通する「香りの変化」
私たちは普段、「 くるみの香り 」「サンショの香り」と、ごく自然に口にしています。
けれど、その香りは、本当に最初からそこにあるのでしょうか。
調香の仕事をしていると、植物の香りは必ずしも最初から完成した姿で存在しているわけではない、と感じることがあります。
火を入れることで現れる香り。 傷をつけることで立ち上がる香り。 時間をかけて育つ香り。
自然の中には、「変化」によって初めて生まれる香りが少なくありません。今回は、くるみを軸に、そのことを実際に確かめてみました。
生のくるみと焙煎したくるみ
最近、サラダに刻んだくるみを入れるのが楽しみになっています。
実は、以前はくるみがあまり好きではありませんでした。そのまま食べると少し生っぽく感じられ、薄皮の渋みも気になっていたからです。
ところが、ある日よそでいただいたサラダに入っていたくるみがおいしくて、印象がすっかり変わりました。それ以来、家でもサラダには必ずくるみを入れています。
ただ、どうもあのときのおいしさが足りません。「もっと、くるみの存在感があったはず」。そんなある日、「生のむきくるみは、軽く乾煎りするとさらにおいしくなる」という記事を見つけました。これは試してみなければと思いました。
くるみの香りを調べてみると、生から焙煎への変化には複数の現象が関わっています。生のくるみに感じられる青さや油脂感には、脂質に由来するヘキサナールなどのアルデヒド類が関係していると考えられます。
一方、焙煎すると、メイラード反応をはじめとする熱化学反応によって、ピラジン類やフラン類など、香ばしさを感じさせる成分が新たに生まれます。
実際、くるみの香りを分析した研究の歴史を見ると、単一の成分だけで「くるみらしい香り」を再現できた例はなく、複数の成分が重なり合って初めてあの香りになる、という結論が繰り返し報告されています。
生と焙煎とでは、香りの成り立ちそのものが違う、と言ってよさそうです。

実際に確かめてみた
理屈だけでは分からないので、実際に試してみることにしました。
まず、生のくるみと市販のローストくるみを並べて香りを比べます。予想では、生のくるみはあまり香らないのではないかと思っていました。
ところが、これは違いました。どちらにも、「くるみらしい香り」があります。しかも、香りの強さだけでいえば、生のくるみの方が少し強く感じました。
ただ、その印象はまったく違います。生のくるみには、植物油を思わせる油脂感があり、白木を連想させる乾いた木質感があります。
一方、市販のローストくるみは、香りそのものは穏やかですが、噛んで初めて香ばしさが広がり、ほのかな甘みが現れます。
次に、生のくるみを弱火で焙煎してみました。三分ほどまではほとんど変化がありません。ところが、そのあと急に色づき始め、あっという間に焦げそうになりました。
慌てて火を止め、熱いうちに食べてみると、意外にもあまりおいしくありません。少し焦げた苦みがあり、市販品のような軽い食感もありませんでした。
ところが、少し冷めると印象が変わります。サクサクと香ばしさが増し、噛むほどに自然な甘みが出てきました。「煎りたて」が一番おいしいと思い込んでいましたが、少し時間を置いた方が、香りも味も落ち着くようです。
改めて市販のローストくるみと比べると、こちらは最初から軽いサクサク感があり、焙煎も均一です。やはり、製造条件がよく管理されているのでしょう。今回の実験では、総合点で市販品を超えることはできませんでした。
それでも、一つ発見がありました。くるみのおいしさは、香りだけではなく、食感と甘みが重なって初めて完成するということです。
そして、生のくるみに感じた白木のような香りは、私にはどこかイリスの根の乾いた木質感にも通じるように思えました。

山椒は、叩くことで香る
熱を加えなくても、香りが変化する例があります。
和食では、木の芽を料理に添える前に、手のひらで「パン」と叩きます。葉の細胞が壊れ、中に閉じ込められていた香気成分が放たれるためです。
青じそも、もむと香りが強くなります。
桂や桜の葉は、時間が香りを育てる
秋の桂の落ち葉は、乾いていくにつれて甘い香りを放ちます。
桜餅の香りも、生の葉そのものではなく、塩漬けなどによって細胞が壊れ、香りのもとが変化することで現れます。
火を入れなくても、傷つくことや乾くこと、時間がたつことで生まれる香りがあるのです。
香りは「変化」の中で生まれる
火を入れる。 叩く。 乾く。 時間がたつ。
方法は違っても、共通していることがあります。それは、物質の変化によって、それまで表に現れていなかった香りが立ち上がるということです。
くるみの場合は熱による化学反応、山椒は物理的な破壊による精油の放出、桂とサクラは細胞の崩壊をきっかけとした酵素反応。
仕組みはそれぞれ違いますが、どれも「元からそこにあった香り」ではなく「変化の結果として生まれた香り」だという点は同じです。
私たちが「くるみの香り」「山椒の香り」「桜餅の香り」と呼んでいるものの中には、植物が最初から放っていた香りではなく、変化のあとに生まれた香りが少なくありません。
香りは、静止したものではなく、動き続けるものなのです。
自然は、香りの先生
香りについて教えてくれるのは、香料瓶だけではありません。毎日の食卓も、庭の植物も、季節の落ち葉も、みな香りの先生です。
私は、実践を伴わない知識には、どこか物足りなさを感じます。職人さんの仕事を尊敬するのも、自分の手で確かめ、自分の感覚で積み重ねているからです。
今回のくるみも、実際に焙煎してみたことで、本を読んだだけでは気づかなかったことがいくつもありました。
生のくるみにも、ちゃんと香りがあること。 煎りたてより、少し冷めた方が香ばしさが際立つこと。 そして、市販品の焙煎技術は思っていた以上に完成度が高いこと。
ある人にとっては、「今ごろ気がついたのか」と思うような、小さな発見かもしれません。
でも、不思議だと思ったら、まずやってみる。
香りについては、そうして確かめたいことが、まだいくらでもあります。
筆者
発信:PARFUM SATORI
創業者・調香師 大沢さとり
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香水の香りも、時間とともにトップノート、ミドルノート、ラストノートへと変化します。
植物から得られる香料については、パチュリの記事でも詳しく紹介しています。
桂の木と落ち葉の甘い香りについては、note「大沢さとりの香り紀行」に綴っています。
▶ 桂の木の葉と香り

