薔薇の香り -SOUBI(そうび)のできるまで
──南仏の空から、瀬戸内の光へ──
薔薇の香り 。最初のインスピレーションは、南仏の海と空が薔薇色に染まる夕暮れの雲から始まった。
カンヌの海岸沿いのテラスで夕食を取りながら、夏の遅い日没を眺める。
広がる空は乾いて澄み、ピンクからすみれ色へと色を変えながら、
光の層がドラマチックに溶けていく。
南仏の空気はからっとしていて、どこまでも明瞭。
湿度が少ないため光が遠くまで届き、
赤と紫の光が際立って見える。
その乾いた空の下で、私はこの色を香りで描きたいと思った。
南仏の光には、影の輪郭がある。
空も海も花も、くっきりとした色の境界。
その感覚を香りに移したのが「NUAGE ROSE(ニュアージュローズ)」だった。
ローズとスミレを中心に、
イリスとミモザを重ねて淡いパウダリーの層を作る。
だがそれは「粉」ではなく、光を散らすヴェールのような質感。
トップには洋梨のベースを置き、
地中海の陽光のようなフルーティな甘さを添えた。
完成した香りは、フレッシュでありながら、大人っぽく、
自分が女性であることを、そっと思い出させてくれる香りだった。
だが、どこかに“洋のROSE”としての完成形があり、
それを越えた先に、私自身の薔薇があるような気がしていた。

日本の光を知る旅
その気づきのきっかけは、ひとつの旅だった。
岡山から香川、愛媛、尾道を経て、再び岡山へ。
瀬戸内海をぐるりと一周した。
しまなみ海道を走る。
大小の島々が点在し、海は穏やかに光る。
高台から見下ろすと、空と海の境界があいまいで、
遠くの島影は靄の中に溶けている。
オリーブや柑橘の畑。
港町の時間は、おっとりとして、ゆっくり流れる。
南仏と似た地中海性の気候を持ちながら、
瀬戸内の景色はまったく異なって見えた。
それは空気の湿り気と、時間の速度の違い。
南仏の光が乾いた刃のように瞬間を切り取るなら、
瀬戸内の光は湿度を含んで、すべてを包み込むように漂う。
夕暮れの海は朱に染まり、
空は淡い灰を溶かしたような光で満たされる。
その「くぐもり」は、濁りではなく、
湿潤な空気が光を多重に散乱させて生まれる柔らかさだ。
私はその中に、日本の薔薇の色を見た。

乾いた 薔薇の香り から、湿度のある香りへ
同じ処方の香水でも、空気が変わると香りは違って聞こえる。
南仏の乾いた空気では、香料がすっと立ち上がり、輪郭が明確に現れる。
日本の湿った空気では、香りがゆっくり溶け、層のように包み込む。
乾いた気候では、イリスやスミレのパウダリーな不透明さが
光を受けてちょうどよく拡散する。
だが湿潤な空気の中では、その同じパウダーが
わずかに重く密度高く、ぎゅっと感じられることがある。
そこで私は、パウダリーそのものを減らさず、
重しとなっている香料のいくつかを置き換えた。
つまり、同じ構成の中で役割を変えることで、
“透明と不透明のあわい”を作ろうとした。
スミレの甘さを抑え、ミモザをやや前に出す。
イリスは特徴を残しながら、空気の層を透かすように。
ローズの中心は少し冷やして、トップのフルーティの置き換えと柑橘の調整。
すると香り全体が、光を透かすように呼吸をはじめた。
パウダーの量は同じでも、
その組み合わせが変わるだけで、香りは見違えるように軽くなる。
透明感とは、薄くすることではなく、
光を通す構造を作ることなのだと感じた。

薔薇(SOUBI)の誕生
この香りに「SOUBI(薔薇)」と名づけた。
それは、洋のROSEの延長ではなく、
日本の空気の中で咲く薔薇――つまり“和の薔薇”である。
南仏の薔薇は光の中で咲き、
日本の薔薇は空気の中で咲く。
乾いた空気に似合うのは、輪郭のはっきりした香り。
湿った空気に映えるのは、空間に溶け込むような香り。
日本の風土では、香りが主張するよりも、
「空気とともにある」ことが美しい。
SOUBIは、湿度を纏った光の中に咲く薔薇。
完全に透けることはないけれど、
絹のように光を含む――そんな薔薇である。

靄と光の文化
南仏と日本を往復するたび、
私は写真に写る色の違いに驚かされていた。
南仏では、薔薇色と紫のグラデーションがくっきりと現れる。
日本では、同じ夕暮れが灰を溶かしたような朱に変わる。
それが単なる印象ではなく、理屈として説明できることを、
後になって知った。
15世紀の南蛮渡来を描いた物語の中にも、
「日本の島は墨を溶かしたような靄に包まれていた」と記されている。
その一文を読んだとき、私は深く頷いた。
この国の光は、明瞭さよりも“含み”を重んじる。
色も香りも、輪郭ではなく“余韻”として存在する。
だからこそ、日本の薔薇には透明感が似合う。
それは、光を透かす薔薇ではなく、
靄の中で呼吸する薔薇――
存在よりも、気配としての薔薇である。

補記:光と空気の物理
夕焼けの色を決めるのは、太陽光が大気を通るときの散乱である。
空気中の分子や微粒子が光を拡げる現象をレイリー散乱(Rayleigh scattering)という。
波長の短い青や紫は強く散乱され、長波長の赤や橙はまっすぐ届くため、
太陽が低い位置にある夕暮れには、赤や薔薇色の光が残る。
乾いた南仏の空気では、この散乱が少なく、
青と赤のコントラストが鮮明に立ち上がる。
一方、日本の湿潤な空気では、水蒸気や塵が光を多重に散乱させる
ミー散乱(Mie scattering)が加わり、光の輪郭が柔らかくにじむ。
南仏の夕焼けが「薔薇色から紫」に抜けるのに対し、
瀬戸内では「朱と金赤」に染まるのはそのためである。
この光の違いは、香りの拡がり方とも重なる。
乾いた空気では香料が鋭く立ち上がり、
湿った空気では香りが層をなしてやわらかく広がる。
南仏の空気に似合うのは輪郭あるパウダリーな薔薇、
日本の空気に映えるのは、湿度を抱いた透明な薔薇。
香りもまた、光と同じように、
その土地の空気に生かされている。
参考文献
- 大気光学(Rayleigh散乱 / Mie散乱)
- 南蛮渡来を扱う歴史物語の記述より
「日本の島は墨を溶かしたような靄に包まれていた」という表現(出典未確定)

