香りが、記憶を呼び戻すとき
2026年5月、体調のこともあり、予定していたフランス行きを直前に延期することにしました。
行けなくなったとき、その場所が遠ざかるかと思えば、意外にも逆でした。かえって南仏で過ごした時間が、季節とともに鮮明によみがえってきたのです。
窓から入る光。
海から吹いてくる風。
アパルトマンの部屋の空気。
そして、そこに置いていたHYOUGEの香り。
HYOUGEは、私にとって、単なる抹茶の香りではありません。
12歳から茶に親しんできた時間、旅先で毎朝お茶を点てていた記憶、日本とフランスで感じた光や水や空気の違い——そうしたものをすべて内包している、私にとって特別な一本です。

旅先で続けていた、毎朝の一服
以前、私はInstagramで「毎朝の一服」という投稿を続けていました。日本にいるときも、旅先でも、毎朝お茶を点てる——それは、母から受け継いだ習慣でした。
パリでも、カンヌでも、アムステルダムでも、チューリッヒでも。どこへ行っても、朝になるとお茶を点てて喫する。
持って行くものは、抹茶と茶筅だけあればいい。
茶杓の代わりにはスプーンを使い、抹茶碗の代わりにはカフェオレボウルを使う。
旅先では、正式な道具が揃わなくても、できる形でお茶を点てていました。
2週間から、ひと月ほど旅をすることもありました。
持って行く和菓子も、はじめは日持ちの短い半生菓子を食べ、次に焼き菓子、それからお干菓子。
最後には大事にしていた羊羹を薄く切って添え、それもなくなると、現地でマカロンなどを買いました。
その土地にあるもので毎朝の一服を続ける。私にとって、それは特別な儀式というより、ごく自然な習慣でした。

水が変わると、お茶の表情が変わる
旅先でお茶を点てていると、水の違いを強く感じます。
パリでは、水に苦労しました。
ミネラルウォーターを何種類も試しましたが、どれも抹茶が思うように泡立たない。
一番柔らかいと言われる水も試しましたが、それでも日本のようにはいきません。
何度もお湯を沸かし直しているうちに、ようやく少しずつ泡立つようになる。
そんなことを発見するのも面白いものでした。
一方で、南仏は水がよいのでそのまま飲めて、抹茶もそこそこに泡が立ちました。
アムステルダムの水道水ものみやすく、ただ、私には少し不思議な味がしました。
塩水から塩気を抜いたような、どこか独特の味です。
オランダの人にそう言うと、「ここは世界一いい水だから、絶対にそんなことはない」と言われるのですが、私にはたしかにそう感じられました。
同じ抹茶でも、水が変わると、立ち上がり方が変わる。
泡立ちも、味わいも、口に含んだ時の印象も。
旅先でお茶を点てることは、その土地の水や空気を、身体で確かめることでもありました。

HYOUGEは、場所によって表情を変える
香りも、同じです。
HYOUGEは、日本で生まれた香りです。
日本では、抹茶のほろ苦さや旨みが前に出て、香りは抑制的に、静かに立ち上がります。
湿度を含んだ空気の中で、景色の一部のように溶け込んでいく。
一方でフランスでは、同じHYOUGEが、より軽く、明るく、どこかフルーティに香りました。
南仏の乾いた光の中では、日本では奥に抑えられていた表情が、少し前に出てくるように感じられたのです。
「香り」そのものは変わっていません。
変わったのは、場所——光、水、空気です。
そして、それを受け取る私自身も、抑制された日本の私とは、少し変わっていたかもしれません。

一つの香りの、始まりの場所
HYOUGEは、和の香りを単なる流行として取り入れた香水ではありません。
「抹茶」という言葉から、お手軽に思いついた香りでもありません。
「一つの香りを作るのに、どのくらい時間がかかるのですか?」
そう聞かれることがあります。
実際に香料を量り、試作を始めるのは、制作のほんの一部です。
その前には、構想があります。
そしてさらにさかのぼれば、その起源は、自分自身の人生の中にあります。
私の場合、HYOUGEの始まりは、香料ではありません。
十二歳から親しんできた茶の時間です。
日々の中でお茶を点て、旅先にも茶筅を携行し、異国の水で抹茶を点ててみる。
日本とフランスで、光や風、水や空気の違いを感じる。
その積み重ねの中に、HYOUGEの根があります。
私がInstagramで「毎朝の一服」を投稿し続けていたのも、HYOUGEが長い習慣の中から生まれた香りであることを、自分自身の記録として残したかったからです。
日本にいても、海外にいても、毎朝お茶を点てる。その行為の中で、いつも異なる日常を感じていました。
光が違う。
水が違う。
空気が違う。
それでも、茶筅を手にしてお茶を点てると、自分が回帰する場所は、やはり日本です。
HYOUGEには、その感覚が宿っています。だから、単なる抹茶の香りではないのです。
私にとっては、茶とともに過ごしてきた時間そのものを封じ込めたような香りなのです。

茶の記憶が、旅を連れてくる
旅というと、遠くへ行くことを思い浮かべます。
けれど、香りの世界では、少し違うことが起こります。
一本の香りが、何年も前の景色を、近くへ呼び寄せてくれるのです。
南仏の部屋。
海沿いのアパート。
カフェオレボウル。
窓辺のHYOUGE。
朝の光。
今年は、フランスへ行くことができませんでした。
けれど、日本で抹茶を点てているとき、部屋の窓から初夏の風が入ってくる。
どこからか、バラの香りもする。
体はここにあるのに、心はもうフランスを旅している。
今年の春、母を見送りました。お茶を点てるたびに、いろいろなことを思い出します。季節の決まりごと。お道具の由来。旅先での朝のこと。母もまた、旅が好きでした。
香りは、その場で身にまとうものであると同時に、時を経てから場所や記憶を運んでくれるものでもあります。
HYOUGEは、そうした時間を連れてくる香りです。
ここまで、調香師としてHYOUGEの背景をお話ししました。
実際に香りを体験した第三者の視点として、MR. FRAGRANCEさんのレビュー動画も公開されています。
HYOUGEの制作背景や香調については、以前の記事で詳しくご紹介しています。
発信:PARFUM SATORI
創業者・調香師 大沢さとり

