茶壷香水 は、こうして形になっていった

茶壷香水 の初期スケッチと設計図

茶壷香水 は、最近思いついた企画ではありません。


始まりは2002年ごろまでさかのぼります。
その頃、私は伽羅の香りに取り組み始めていました。伽羅の香りをそのまま一言で掴むのではなく、まずはその五味(ごみ)を一つずつ取り出し、それぞれを別々のアコードとして組み立てていく。

残っていた処方箋を見返すと、そこには「辛い(からい)」と書かれた一枚のメモもあり、その頃すでに、私は伽羅の複雑さを分けて捉え、それをもう一度まとめ直して一本の香りへ導こうとしていたことが分かります。

最終的に、その五味をまとめ、さらにアコードを重ねて一本の処方にしたものが、のちの「SATORI」になっていきました。

つまり、茶壷香水は、最初に器だけがあったのではありません。
中に納めるべき香りも、同じころ、少しずつ形を持ち始めていたのです。

2002年、香りと器は同時に動き始めていた

そしてその頃、私はもう一つ別のことを考え始めていました。
それが、茶壷のかたちをした香水です。

最初に描いたスケッチはいま見ても、本当にラフなものです。
丸みのある胴、茶壷らしい口元、上部に紐をかけることを意識したような部分。

まだ線は荒く、完成図というより、形の気配を探っている段階の絵でした。けれども、あとから見返すと、その中にはもう、茶壷香水の原型がたしかにあります。

香水瓶でもあり、茶壷でもある。そのあいだにある形を、私はその頃すでに探り始めていました。

香水瓶を探していた時期でもありました。
西洋の洗練された瓶を求めて、フランスへ行き、問屋のような存在を探し、パリ11区を歩いたのもその頃です。

けれども、西洋の瓶を探しながら、心のどこかでは、香りを納める器として、もっと別のかたちがあるのではないかと思っていました。美しい瓶を見つければそれで終わる、ということではなかったのです。

スケッチは、少しずつ立体になっていった

私はこの構想を、ただ頭の中で思い描いていただけではありませんでした。
実際に窯元を探し、どうすれば香水を茶壷というかたちで成立させられるかを考え始めていました。

振り返ると、それは一つの窯元でそのまま完成したものではありません。京都、鍋島、有田、そしてその次の有田の窯元へと、いくつもの場所を経ながら、少しずつ形を探っていったものでした。

白い原型の写真も残っています。
有田で作られたモールドの段階のものですが、それを見ると、最初のスケッチにあった形が、実際の立体として起こされていたことが分かります。

紙の上の線だったものが、白い器として現れた時の気持ちは、今思い返しても特別です。頭の中の構想が、ようやく現実のものとして手で触れられるところまで来たのだと思ったはずです。

さらに残っている見積書や発注書を見ると、その試みが夢想ではなかったことがよく分かります。
2007年の資料には、有田の窯元さんへの見積書や発注書があり、「茶壷形状香水瓶サンプル」「藤・桜・梅の三種」といった具体的な記載が残っています。こうして資料を読み解いていくと、茶壷香水は、ただ一度作って終わったものではなく、試作と改良を重ねながら育っていったものだということが見えてきます。

2007年3月5日付の 茶壷香水 形状瓶サンプル発注書。藤、桜、梅の三種を発注した記録と、口元形状の手描き修正指示が残る資料。

最初のお披露目は、ニューヨークとパリだった

最初のお披露目は、いま思えば、ニューヨークでした。
ホテルの中で行われたジュエリーの小さな展示会の一角に、茶壷香水を置かせていただいたのです。当時は別の会社の名前で活動していた時期でもあり、そのあたりの事情はここで詳しく書くつもりはありませんが、今振り返ると、あれが最初に人前に出た場だったのだと思います。

そして2006年には、パリのヴァンドーム広場近く、ホテル・ハイアットで行われたジュエリーの個展の中で、和の香水として茶壷香水を置いていただきました。
いま残っている写真を見ると、茶壷、箱、背景のしつらえまで含めて、すでに「見せるもの」として成立させようとしていたことが分かります。売れたかどうか以上に、私はその時点で、茶壷香水をすでに外へ向けて差し出していたのです。

単なる商品ではなく、象徴だった

当時、茶壷香水の価格は10万5千円でした。
今とは受け止められ方も違い、その頃の感覚ではかなり思い切った価格だったと思います。こんなに高いものを、いったい誰が買うのだろうと思われたはずです。けれども、それでも、ぽつりぽつりと手に取ってくださる方がいました。とくに海外への贈り物として選んでくださることが多かったのを覚えています。

私は当時から、これを単なる商品だとは思っていませんでした。
もちろん売るものではあるのですが、それ以上に、これは象徴になるものだと感じていました。香水そのものだけでは伝えきれない日本の美意識や工芸の力を、一つの姿として外へ持っていくもの。香りの外交官のような役割を、この茶壷に持たせたいと思っていたのです。

だから、私は資料を捨てなかった

だからこそ、スケッチも、処方箋も、原型の写真も、見積書も、発注書も、展示の記録も、捨てずに取ってきました。
いつかこの茶壷や香水が世の中に出て、そのストーリーを話せる日が来ると思っていたからです。もう一つには、これが誰かの真似ではなく、自分の中から生まれた構想であることを、自分自身でもきちんと残しておきたい気持ちがありました。紙の上のスケッチも、窯元とのやりとりも、後から見ればどれも小さな断片ですが、そうした断片が集まって、ひとつの構想が実在していたことを証明してくれます。

一度止まったものを、いまもう一度見直している

その後、茶壷香水は一度、止まることになります。
香りと茶壷そのものにはたしかな手応えがありましたが、それを取り巻くものまで含めて見た時に、まだ完成しきっていないという思いがありました。どう見せるのか、どう包むのか、どう語るのか。茶壷本体と香水が素晴らしいだけでは足りない。販売の方法も、ウェブサイトも、カタログも、ショッパーも、茶壷香水を取り巻く全体が、まだ十分に整っているとは言えないと思っていました。

それでも、この構想を手放すことはありませんでした。
捨ててしまえば、それで終わったはずです。けれども私は、そうしませんでした。むしろ、いつかもう一度、今度はもっと完成度の高いかたちで世に出したいと、どこかでずっと思っていたのだと思います。

いま、私たちはその続きをもう一度始めています。
今回の第二世代は、新しく思いついた商品ではありません。2002年ごろに始まり、香りを作り、器を考え、いくつもの窯元を探し、ニューヨークやパリで一度人前に出し、その後も資料とともに持ち続けてきた構想を、いまの時代にふさわしい完成度でもう一度世に出そうとしているのです。


長く温めていた、という言い方もできるかもしれません。
けれども私にとって大切なのは、単に時間が経ったことではありません。香りも器も、試作も展示も、実際に一度やってみたうえで、それでもなお、もう一度世に出す意味があると思えたことです。

茶壷香水は、思いつきではありませんでした。
香りの処方箋の一枚から、ラフスケッチの一本の線から、原型の写真、窯元とのやりとり、展示の記録へと、少しずつ現実になっていったものです。私はその時間を、ようやく今、ひとつの物語として話せるところまで来たのだと思っています。


発信:PARFUM SATORI
創業者・調香師 大沢さとり


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