どんな場所も環境も、息が詰まるような、とした。
それは緩く、生暖かい。総身に幾らかの重しを科されたような気怠い時候。
6月。1年のちょうど真ん中。
皆さんはこの1ヶ月に何を思い、何を感じるのだろうか。
前述の体覚はずるところ“梅雨”に起因する。
数多ある時節の中で、この季節を特に好む人はかなり限られるだろう。少なからず私の周りではその傾向はかなり強い。
語弊を恐れず言えば、人が生きるのに余り向いていない季節かもしれない。澄み切った初夏への期待を感じさせながら、麗らかな春へ後ろ髪を引かれる。内生の。
長期間に渡る雨天と高い湿度、気温の上下動に乏しく、いわゆるジメジメとした感覚を覚える。
そんな生活に若干の陰を落とすような雨期に、翻って生命の輝きを放つ生き物が在る。
それは、苔。コケ、である。
今回は「苔」に焦点を当て、我々日本人との連関、そしてパルファンサトリ「コケシミズ」の世界観との繋がりを概観していきたい。
苔、とは。
そもそも苔とはどんな植物であろうか。
苔に対するイメージとして日陰に、そして湿潤な土壌にびっしりと群生している、そんな印象を持つ人が多いのではないだろうか。
けれど、良くも悪くもそのくらい。それ以上でも以下でもない。と、思う。
そこで鍵になるのが「水分」と「光合成」。
実のところ、苔は単独で存在するだけでなく、群落として寄り集まって生息することで、株や葉が絡まり、小さな穴がたくさん開いたスポンジのような葉のネットワークを形成している。そして水が流れる際、自分に必要な水分を吸収し、周囲の次の苔へと水を流していくことで、群落全体で水分を共有する特異な仕組みを持ち合わせている。
更に興味深いのは、日向で生きる苔も、日陰で生きる苔も水分が得られている状態であれば暗く弱い光で光合成が行える点である。これは、苔が体の水分を保持する特別な機能を持たないことに起因しており、光合成において最も重要な要素が水分であるという一見整合性の取れない性質をしている。
そして、多くの植物が脱水されると回復不能となり枯れてしまうのに対し、苔類は脱水されても死なない。水が与えられれば再び生理活性を回復する「乾燥耐性」を持つ、見かけに依らず意外とエッジの効いた生き物なのだ。
以上の様に苔の美しさは、その生理的状態と密接に関わっている。極端な乾燥でもなく、過度な飽和状態でもない。過度な日照りでもなく、真暗な光でもない。繊細で穏やかな湿潤状態がその理想とされている。この「適当な」状態は、持続的な高湿度と穏やかな降雨をもたらす梅雨の時期だからこそ、生み出し得るものであり、その特定の時節に苔は苔本来の生命力に満ちた、最も鮮やかな姿を見せるのだ。
より梅雨という文脈に寄せ、苔について簡単にまとめてみよう。
苔は湿気が多い場所で繁殖しやすく、常に濡れた状態が続くことで成長が促進される。そして先に述べたように、苔は強い日光を苦手とし、日陰や半日陰を好む。梅雨の特徴の一つである長雨は、外壁や地面が湿気を吸収しやすい環境を作り出し、苔の繁殖にとってうってつけの環境を作り出す。そして断続的な重たい曇天は日光が遮る役目を果たし、苔が乾燥するリスクが減らし、光合成に適した弱い光が長時間供給されるという訳だ。

以上を踏まえると、私はパルファンサトリの苔清水に対して改めてこんな印象を抱く。
微かな日照りと、涼やかな湿り気。
幕開けは控えめに、ふんわりと。強いて言えば、小春日和のサンベイジング。
麗らかな日々を軽やかに謳う、吟遊詩人。季節へほのかに溶けていく。
確たる輪郭の無い深緑に1つ空いた窓。
大袈裟な呼吸の出し入れで、ひと息に僅かな扉のその中へ。
そこはまるで別世界。
壁面、床面を埋め尽くす、苔の豊かな実り。
有史を語るに充分な、何億本もの枝分かれには、清く艶やかな流れが。
生を讃える柔らかな水気は、私へ次第にし、「」が放つその意味を何度も何度も伝え聞かせていた。
それは終わることのない、永遠の幕切れ。
爽やかなシトラスの香り立ちは苔のに最適な優しい日差しを感じさせ、フレッシュな印象は保ちつつも、フィルムは次のコマへと。
スポットライトは苔に向けられ、明度の高い朗らかな緑色から、重力を感じる苔本来の色味へと。
移ろいの中、土壌から次第に素肌へと落ちていく様な、心地よい印象を覚える香り。
まさに苔の苔らしさを表した香りではないだろうか。
最後に日本文化における「苔」に焦点を当て、結びとしたい。
「わび・さび」の精神と苔
「わび・さび」は、質素さ、静けさ、時間の経過、そして自然の中に見出す不完全な美を尊ぶ精神。苔の持つ控えめながらも力強い生命感、そしてゆっくりと広がり、時間の流れを感じさせる風情が、この美意識と深く共鳴している。例えば、苔に覆われた庭は、水墨画のような侘びた風情を感じさせ、静かな美しさを表現する究極の例とされる 。
苔は、その生物学的な特性から、一時的な美しさだけでなく、生命の回復力と持続性を象徴する存在でもある。乾燥から回復する特性や厳しい環境下でも生き抜く力は、日本の国歌に「苔のむすまで」と歌われる様に、太古の昔から我々単一民族の中で通奏低音の様に響く永続性や不朽の精神と結びつけられてきた。この事実は、苔が「わび・さび」に内包される「移ろいゆく美」と「時を超えて存続する生命力」という、一見矛盾する二つの側面を同時に体現していることを示している。苔は、単なる自然の要素を超え、日本の文化において、人生のサイクルや不変の精神を象徴する多面的な存在として位置づけられているとも言えよう。
日本庭園における苔の変遷と役割:西芳寺(苔寺)に代表される苔庭の美
日本庭園の起源は飛鳥時代に遡るが、当時、苔は意図的に庭園には植栽されていなかったと考えられている。室町時代に造成された西芳寺(苔寺)でさえ、当初は白砂青松の姿で、作庭当初は白砂の庭。しかし江戸末期になり、その全面が苔で覆われるようになった。
現在では、西芳寺は120種を超える苔に覆い尽くされ、世界文化遺産にも指定される日本を代表する苔庭として世界的に知られている。他にも、昭和の作庭家・重森三玲による東福寺の市松模様の苔庭や、梅雨の朝陽で苔が瑠璃色に輝く様子から名付けられたと言われる京都、瑠璃光院の「瑠璃の庭」など、日本には苔を主役に据えた多様な庭園が存在する 。
この苔庭は、特に雨上がりの梅雨時期に。視覚だけでなく、梅雨時の高い湿度や雨上がりの清々しくもほの甘やかな空気、土壌から湧き立つ力強さと混ざり合い、五感全体を通じて自然と一体となる感覚をもたらしてくれる。
文学・芸術に描かれる苔と梅雨:俳句や日本画における描写
梅雨時の雨をたっぷり吸って青々と茂る苔は、「苔茂る(こけしげる)」としての季語とされ、その生命力あふれる美しさがしばしば詠まれてきた。また、「苔の花(はなごけ)」も同じく季語であり、こちらは実苔の生殖細胞の入ったが花のように見えるものを指す。
また、日本画においても、梅雨頃の霧がかった山々や、木々の間から差し込む光に照らされた苔の生い茂る岸壁などが、生命の拠り所として描かれてきた。
そんな日本の文化に息づく苔の美しさ、その精神性を、同じく不可視の「香り」に乗せた。それがパルファンサトリの苔清水ではないだろうか。
そう思えば、気怠い梅雨さえも少しは前向きに、むしろ心豊かに過ごせそうである。
ニックネーム:Ryan
プロフィール:アトリエやポップアップにて接客をしておりました。現在は言葉の仕事をしております。