ふたを開けた瞬間の、柚子の香り
お菓子の箱の蓋を開けると、ふわっと 柚子の香り が立ちます。
今日、塩野のゆず饅頭を久しぶりに買いました。四十年以上前になりますが、冬になると父のお使いで、ここの柚子饅頭を買いに来たものです。
ほかのどこの柚子饅頭よりもフレッシュに感じるのは、あの香りの立ち上がりが、ひと息で部屋を変えるからかもしれません。
柚子は、香りの“量”ではなく“瞬間”が強い。
ふたを開ける、その一瞬が、そのまま記憶の扉になってしまいます。
柚子の香り は、節目で空気を変える
冬の始まりに、朝の胃袋をあたためたくなる日があります。
薄く切ったトーストに、柚子のマーマレードをのせて、ミルクティーを淹れます。しばらく糖質を控えていましたが、果物も、ヨーグルトも、卵も、きちんと食べるほうへ戻しています。甘みを怖がらずに、朝の身体を起こすような気持ちです。
柚子のマーマレードは、香りが先に来ます。甘さよりも、皮のほろ苦さよりも、まず“空気”が変わります。冬はまだ入口なのに、もう少し先の季節まで連れていかれるような匂いです。
柚子とはそういう香り——柚子は、暮らしの節目で空気を変える香りです。

冬至の柚子湯、正月の雑煮
柚子は日常の果実でもありますが、暮らしの節目に置かれてきた香りです。
冬至にはお風呂に浮かび、正月には雑煮の上に少しのせて、お出汁の香りを引き立てます。
柚子は「足す」より「整える」ほうが得意です。
ほんの欠片で、家の中の匂いが整います。年の瀬から新年へ、時間がつながっていく感じがします。柚子の香りは、季節の境目に橋を架けるのだと思います。
日本の食は、香りを封じて、ほどく
木の芽、山のもの、旬の魚介。よく吟味された季節感のある献立の中で、椀物は特別です。
封じ込まれた香りを楽しみに、蓋をあける。お行儀が悪いと思いながら、つい顔を近づけて匂いをかいでしまいます。ほんの数秒の出来事なのに、味覚のスイッチが入るのがわかります。
椀の中には出汁の熱。そこへ柚子がほんの少しだけ入ると、湯気の輪郭が変わります。
香りを肴にして出汁を吸う、という言い方をしたくなるのは、まさにその瞬間。味が来る前に、香りが「いまから食べます」という合図を出してくれます。
日本は本当に贅沢な食文化を持っていると思います。けれどそれは、金額の多寡の話ではありません。
ひとつの素材や四季をとことん慈しむ心から始まって、器や空間を埋めていく。その「埋めていく」の最後の一筆が、香りであることが多いのだと思います。
フランスにも、季節を味わう知恵や、香りを立たせる技があります。ワインやハーブ、バターや焼き色が、食卓の空気を作っていきます。
けれど椀物のように、香りをいったん閉じ込めて、ふたを開けた瞬間に“ほどく”という所作は、日本の美学そのものだと感じます。

フランスで「手に入らなかった 柚子の香り 」
二十年前、まだ日本人が経営する日本食レストランがフランスで珍しかった時代のことです。
本格的な和食店のオーナーシェフが、柚子を日本から輸入できないことに困っていました。
【注1】
当たり前のように手に取れるものが、場所が変わると急に“手に入らない香り”になります。
そのとき私は、柚子の香りの価値を思い知った気がしました。柚子はなくても料理は成立するのに、あると「空気」が成立する。だからこそ、欲しくなるのだと思います。
香水の世界での柚子の香り
香りの学校に通っていたころ、柚子のトップノートとして教わったフランス香水がありました。今となっては私の手元では裏づけを取り切れず、名前もここでは伏せますが、1980年代半ばの香水だったと記憶しています。
その香りが本当に柚子そのものだったかというと、私の鼻には、柚子らしさはそれほど強く感じられませんでした。それでも「柚子」という言葉が、遠い場所で香水の語彙になっていること自体が、当時は不思議でした。
香水のトップノートは、最初に立ち上がり、空気を変える役目です。まさに、ふたを開けた瞬間の柚子と似ています。
その後、香粧品の世界では1990年代中頃から香水のモチーフにYUZUが登場しはじめたと、長谷川香料の技術レポートにまとめられています【注2】。そして2000年代に入る頃から、柚子は世界でも注目され、香りの説明文の中で「YUZU」という単語を見かける機会が増えていきました。
パリの左岸を歩いていた時のことです。当時の記憶では、まだ日本には今ほど情報が入ってきていなかったころでした。サン=ジェルマン大通りの端で Oyédo(オイエド) という名を見つけたとき――柚子の香りが、当たり前のように棚に置かれていることに驚きました。【注3】
それと同時に、キャンドルだけで一つの美しいブティックが成立しているということにも、あらためて驚きました。香りが「脇役」ではなく、暮らしの中心に置かれている国なのだと、静かに腑に落ちたのです。
香料会社からも、柚子の天然香料だけでなく、柚子調の調合香料を薦められたことがあります。私も自分で、柚子の“青さ”と皮の輪郭を出したくて、カシスやガルバナムを少量使って作ってみたことがあります。
しかしながら、日本人にとってあまりにもよく知っている香りだけに、再現は難しく感じました。ほんのわずかな“違い”でも納得できないからです。
柚子の香りは、単に爽やかというだけではありません。青さ、皮の苦み、湯気の立ち上がり、冬の輪郭。そういうものが一緒になって、柚子になります。
だから私は、柚子を「香料」として語るより先に、「暮らしの節目」で語りたくなるのだと思います。

番外:仏手柑という、指のある柑橘
柚子の話をしていると、ときどき柑橘の親戚たちのことも思い出します。
十年ほど前、実物を見たことがなくて、仏手柑(ブッシュカン)を取り寄せてみました。実の先が分かれ、細長い指のようで、合掌した手に見立てた名だと聞きます。
香りが強く、観賞用としても愛される柑橘で、果皮を楽しむ文化があることも知られています【注4】。
日本は「柑橘王国」と言われるほど、香りの違う柑橘が暮らしの中にあります。柚子、カボス、スダチのように出汁や魚に添えるものもあれば、橙のように年中のしつらえに寄り添うものもあります。
小さな違いを「違いのまま」愛してきたせいか、私たちの鼻は柑橘に対してだけ、少し厳しいのかもしれません。
柚子と同じように、味より先に空気が変わる柑橘です。
冬至の光 柚子の香り
冬至は、一年でいちばん昼が短い日――けれど「福の兆し」は、いつもその少し前から始まります。
夜明けはしばらく遅くなるのに、日暮れはすでに遅くなり始めています。
陰から陽へ移る、その手前で、光は静かに折り返していきます。
柚子の香りもまた、寒さの只中に「季節の向こう側」を連れてきます。
発信:PARFUM SATORI(パルファンサトリ)/ 創業者・調香師 大沢さとり
■注:
【注1】フランス(EU)で生鮮柑橘の輸入が難しかった背景:EUの植物検疫(フィトサニタリー)上、非EUからの植物・植物製品は検査や証明書が求められる枠組みがある(European Commission)。
European Commission|Trade in plants and plant products from non-EU countries
【注2】長谷川香料「多彩なユズの香り ~状態によって変わるユズ~」(HASEGAWA LETTER online / OUR 技術レポート, 2025.01)
https://hasegawa-letter.com/new_articles/new_articles-1196.html
【注3】ディプティックの「サン・ジェルマン大通り34番地(パリ5区)」は、ブランドの誕生の地として公式に案内されている。また「34 boulevard Saint-Germain」コレクションは、最初のブティックへのオマージュとして公式に説明されている(公式ページ)。
Diptyque|サン・ジェルマン大通り34番地(パリ5区)
Diptyque|コレクション 34 boulevard Saint-Germain(最初のブティックへのオマージュ)
【注4】仏手柑(Buddha’s Hand / Citrus medica var. sarcodactylis)は観賞性や芳香で知られる(Missouri Botanical Garden Plant Finder)。
Missouri Botanical Garden|植物詳細ページ
【注4-2】Buddha’s Hand の来歴・利用(装飾性、香り、供物など)(University of California, Riverside “Givaudan Citrus Variety Collection”)。
UCR|Givaudan Citrus Variety Collection(Buddha’s Hand)
・農研機構「かんきつ属(Citrus L.)の品種一覧」。
https://www.naro.go.jp/laboratory/nifts/kih/hinshu/citrus_cat/index.html
■リンク:
・トップノート(Top Note):香水の匂い立ち その2
・MOTHER ROAD(マザーロード)──17年愛される香水の物語

