金木犀(キンモクセイ)― 共通の香りが教えてくれる境界と敬意

金木犀 香り のイメージ

金木犀 香り が映し出す「自」と「他」の境界

金木犀 香りは、誰にとっても「あ、金木犀だ」と分かる共通の合図です。けれども、その瞬間に立ち上がる記憶や感情は、一人ひとり固有のもの。共通の刺激から、個別の物語へと分岐していくのです。

そのプロセスは驚くほど繊細です。最初は嗅覚細胞が興奮し、「金木犀 香り」と認知される。次に花を探す視覚が加わり、咲き初めか散り際か、朝か夕方か、あるいは雨か晴れかといった環境情報と結びつきます。やがて神経の束が記憶野へと伸びるように、過去の体験が呼び覚まされ、最後に喜びや切なさといった情動が揺さぶられる。まさに「共通から固有へ」と感覚が移行する旅が、金木犀を嗅ぐたびに始まるのです。

そして、香りは一人の体験にとどまりません。誰かと共有することで意味が大きく揺らぎます。運動会や文化祭といった季節の情景、家庭でのエピソード、あるいは芳香剤の印象――人と語り合うと、同じ金木犀でも、ある人には懐かしさを、別の人には寂しさを喚起します。ポジティブにもネガティブにも振れ、関係性によってその意味は変化するのです。

ここに「自と他」の境界をどう捉えるか、という問いが浮かび上がります。

感覚は自由、専門には敬意を

私たちが香りを語るとき、「自分の感じ方」と「みんなが共有できる基準」を分けて考えることが大切です。

たとえば「甘さ」という物差しが10段階であるとしましょう。私は金木犀を嗅いで「甘さ4」と感じるけれど、多くの人にとっては「甘さ8」くらいかもしれません。ここに「自分の自由な感じ方」と「他の人との共通の基準」という二つの領域があります。

もし私が「これは少し甘い」と言い、別の人が「ちがう、青っぽい色だ」と答えたら、そもそも物差しが違うので話が噛み合いません。だからこそ、同じ指標で話すことが「自」と「他」の境界を正しく見つめることにつながります。

金木犀は、日本人なら誰もが知っている香りです。共通の合図を持ちながら、それぞれの人に固有の思い出を呼び起こす。だからこそ「物差し」として用いることで、自分の感覚と他者の感覚、その境界を考えるのにとても適しているのです。


パルファンサトリの調香師大沢サトリがフランスのラボで仕事中

多様性を認め、自分の感覚に立脚する

私自身、金木犀をテーマに香水を創るとき、「そのもの」を再現しているわけではありません。表現しているのは、私の記憶の中にある金木犀の情景です。だから、ある人には共感を、また他の人が「これは私の知る金木犀とは違う」と感じても、それは当然のこと。その人にとっての金木犀像が異なるからです。

ただし、思いつきで混ぜ合わせるのでは専門家の仕事にはなりません。抽象画を描くまでに、積み重ねた確かなデッサン力があるように、自由な表現の背後には必ず基礎と技術が存在します。その上で初めて、自分の感覚を香りとして形にできるのです。

そして受け手の側にも、自分の尺度を持って感じる眼差しが求められます。評論家の言葉や雑誌の評価に頼るのではなく、自分自身で嗅ぎ、考え、経験を重ねる。その繰り返しの中で鑑賞眼は磨かれ、好みや価値観は変化していきます。それはひとつの成長の形であり、やがては自分自身の創作―香りに限らず、生き方の形作りにもつながるのです。

そしてもうひとつ大切なのは、自分の思う形を「相手に押しつけないこと」だと心がけています。香りも作品も、まずは「ただそこにある」だけのもの。どう受け取るかは、相手の自由であり、その人の領域です。自分が生み出した香りが誰かに共感されることもあれば、別の人には違和感を覚えさせることもあるでしょう。そのどちらも否定されるべきものではなく、多様な感じ方として尊重されるべきなのです。

金木犀の香りは、万人にとって共通でありながら、決して完全一致することのない個別の記憶を呼び起こします。そこには「自と他」の境界を尊びつつ、多様性を認め、自分の感覚に立脚するという学びが潜んでいるのです。


金木犀の香料分析 ― 三重奏の構造

金木犀は、個人の記憶や文化的な思い出と深く結びつくだけでなく、分子レベルでもその特徴がはっきりと示されています。感覚の背後にある構造を知ると、香りがなぜ「共通」として認識されながらも、個人によって異なる印象を生むのかが見えてきます。

金木犀の香りは、次の三つの骨格(香気成分)によって形作られます。

  • γ-デカラクトン:アプリコットや桃を思わせるフルーティな甘さ
  • リナロール:ナチュラルな透明感と軽やかさ
  • β-ヨノン:木や革を思わせる深みと奥行きのあるパウダリー

この三重奏によって、金木犀は「甘く軽やか、しかし強く、しなやかに広がる拡散性」を持ちます。分子自体は決して軽くないのに、不思議と遠くまで届くのです。


文化的な意味 ― 日本人の共通記憶

金木犀は単なる花ではありません。秋の到来を告げる風物詩として、日本人の生活と文化に深く根ざしています。

通学路や校庭、祭りや家庭の庭。人々は世代を超えて金木犀の香りに触れ、季節と人生の節目を重ね合わせてきました。だからこそ、金木犀は「共通の記憶」でありながら、「固有の思い出」として各人の心に宿るのです。

ここからは、私自身にとっての金木犀について少しお話ししたいと思います。共通の記憶が人それぞれの人生と結びつくとき、その香りは一層深い意味を帯びます。私にとっての金木犀は、母や家族との時間、そして多くの災害を乗り越えてなお受け継がれていく「日常の幸せ」と重なっています。その思いを託したのが、次に紹介するソネットです。

ソネット ― 世代をつなぐ香りの詩

夕暮れ時の透明な日差しが  部屋の奥まで伸びて
花の香りが呼んだから  庭のテラスへおりてみた
橙色の星の花を  白いハンカチに包んで
私と似た面差しの  6つの少女が笑っている
花は時を告げるように  季節とともに巡ってくる
追憶のとき  少し褪せた家族の写真に
思い出が韻を踏んで  幾世代も訪れる
くり返し  ソネット(叙事詩)のように

この詩は、東日本大震災の折に生まれたものです。母から子へ、そして孫へと引き継がれる幸せの記憶が、金木犀と戯れる日常の中に見いだされたのです。


あなたにとっての金木犀は?

金木犀の香りは、共通の合図でありながら、それぞれの人に異なる物語を思い出させます。秋の夕暮れ、ふと立ち止まったとき。そこに見えるのは、あなたにとってどんな風景でしょう。

今年の金木犀は、あなたにどんな記憶を届けてくれるのでしょうか?

 


参考

  • 近藤三雄ほか. 日本農芸化学会誌, 64(6), 1167–1172 (1990).
  • Kondo, S. et al. J. Agric. Food Chem., 38(1), 123–125 (1990).
  • 岩崎好陽 編『香料の事典』廣川書店, 2001.


大沢さとり
パルファン サトリ 創業者・調香師。
香りにまつわる素材や香水の制作背景を、少しずつお届けしています。


▶お買い物ページリンク金木犀の香りソネット

キンモクセイの香りは何故遠くまで届くのか]

メイキングストーリー:キンモクセイの香水ソネット