スイレンの香りが喚起する情景
パルファンサトリのスイレンを香る
霧がかった水面を想像する。
それは眼前にだけ広がっていても良いし、周囲一帯を覆いつくしていても良い。
確かな体覚として湿り気の中に居て、視線は霞みを超えたあたりへと。
一先ず向けておく、何も見えないのだから仕方がない。
その場に暫しの佇立、次第に柔らかな心地に蒸されていく。
視界も徐々に順応していく。
茫漠とした全体を捉えるのではなく、むしろ眼前の機微へピントは絞られていく。
それはあたかも初めから意図されていたかのように。
眼差しは誘導され、気体と液体の喫水線へ。
曖昧な揺らぎに知覚の処理は追いつかない。
やがて機能は緩やかに停止へと向かう。
人間の平衡感覚は複合的に成り立っている。
その一つが止まれば自立さえままならない。
事実、事実、事実。
故にそれは一種官能的である。
不完全ながらも全体を補完したがる愛しい挙動。
何度も繰り返し身体を浸したくなる。
自己のコントロールが適わない心象の世界。
だからこそ高度に精錬される。精神の源。
懊悩を繰り返しながらも向き合えるものだけが、迎える既知からの解放。

水という象徴性と日本文化
水は命の根源。
地球上のあらゆる生命体に欠かせない存在。故に太古より信仰の対象とされ、単なる「物理的な物質」としての意味合いを超越し、人々の精神、文化、社会構造に深く根ざしてきた。
特に日本列島は四方を海に囲まれ、豊かな河川や水源に恵まれているという地理的特性上、その傾向は強く顕現している。
例えば文学作品においても。
鴨長明 『方丈記』の引用
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし」
この一節は、日本人に通底する水への観点を端的に表している。間隙なく流れゆく川とよどみ浮かぶ泡沫は生の無常観をありありと描写しており、一連の表現には生にまつわる普遍的な心理が託されていると言えよう。
このように、我々の内側に息づく水への象徴性や神聖性は個々の内側に閉じることなく、詩歌や彫刻、遍く表現物に埋め込まれ、広く伝播してきた。
以上を踏まえ、今回は、水の象徴性に着目してみたい。その上で、かの有名な川端康成の短編小説『伊豆の踊子』を例にとり、我々が水に対して投影する生への在り方、そしてパルファンサトリのスイレンへの接続を考察していく。
『伊豆の踊子』と「水」の物語
あらすじ
孤児として育ったために性格が歪んでいると感じていた学生「私」は、孤独な思いを抱えて伊豆の旅に出た。道中で出会った旅芸人一座と心を通わせ、特に純粋な踊子に惹かれて心が安らいでいく。
しかし、別れの時は近づき、前夜に誘った映画に踊子は現れず、私は一人寂しさに涙を流す。翌朝、港で別れの言葉を交わせないまま船は出発。遠ざかる踊子が白いものを振る姿を見て、私は理由もなく涙を流し、「その後には何も残らないような甘い快さ」を感じる。
孤独だった「私」が他者と心を通わせ、内面の安らぎと清らかな感情を得るまでの物語。
雨とともに始まる、孤独な旅
詰まるところ、主人公「私」の自己嫌悪と孤独に満ちた内面の状態が、伊豆への旅を通じていかにして浄化されるかを描いた物語である。
そしてその心理的再生の過程には、随所で「水」の描写が散りばめられている。
物語の冒頭。「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、 雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩 にかけていた。」
雨によってずぶ濡れになり、駆け込んだ茶屋で踊り子一行と再会するのだが、この段階で「水≒雨」は内側から湧き出るものではなく、単に主人公に対して打ち付ける対象として描かれている。
彼自身の受動性を強調しながらも「杉の密林を白く染めながら、凄まじい早さで」とあるように、その暗澹とした閉塞感や切迫感も同時に表している。
むしろ雨は「捻くれた孤児根性」を克服する物語を開くための誘い水であった。
この場面を転機として、主人公と関わりを持つ人々は主人公の内面を映す舞台装置としての役割を果たし、精神の浄化の道程を示していく。
他者との出会いと「澱み」の投影
この旅が始まる前から前述の「孤児根性」が要因となり「私」は内功し、鬱然に閉ざされていた。
旅の途次で「私」が出会う、長年中風を患い「水死人のようにむくみ、瞳は黄色く濁っている」老人には、孤独や、過去の経験がもたらす「澱み」や「病理」が投影され、「私」の歪んだ内面が描写されている。
加えて踊子に対して抱いている歪な眼差しや、淡い邪念もこの濁りに内包されている。
そんな「孤児根性」は旅芸人一座、特に踊子との関わりの中で次第に昇華されていく。
清められる瞬間──入浴と「無垢」
決定的だったのは旅先の湯ヶ野の宿、宿の浴場で温泉に入る踊子の裸体を目撃した場面。
この瞬間まで、踊子に大人びた魅力を感じ、踊子にはどこか性愛を伴った内なる欲情が投影されていた。しかし彼女の裸身を目の当たりにすると「手拭もない真裸」の無垢な子供であると認め、抱いていた感情は性的関心から「無垢なるものへのいとおしみ」へと「浄化」される。
神道では、川や海での水浴によって心身の穢れを清めるが 、ここでは、踊子の裸身がその「清らかな水」そのものとなり、「私」の心に潜んでいた「汚い考」を洗い流す媒体として機能している。
彼女の無垢な姿は、主人公の精神を祓い清め、精神的な通過儀礼を遂行させる。この儀式を経て、「私」は踊子に肉体的・性的な関心を抱く恋愛対象としてではなく、精神的に「いとおしい」存在として向き合い始める。
これは、主人公の精神的な再生が、象徴的な「入浴」を契機に本格的に始まったことを意味している。
「涙」としてあふれる感情の再生
そして、物語の結末。下田から東京へ向かう船上での別れの場面。東京へと帰る船に乗り込んだ「私」は、岸辺でひっそりと佇む踊子と、言葉を交わすことなく別れることになる。
そして船が港を離れ、遠ざかる踊子が白いものを振っている姿を目にした「私」の目から、止めどなく「涙」が溢れ出す。「私」の頭は、「澄んだ水」のようになり、流れ落ちる涙は「何も残らないような甘い快さ」として表現される 。
この「水」の描写は、単なる比喩に留まらない。
それは、物語の始まり。「雨≒水」が外界から降り注ぐ受動的なものであったのに対し、結末の涙は「私」の内面から湧き出る、能動的で純粋な感情の表出である。
主人公が旅の始まりに抱えていた心の濁りや澱み、すなわち自身の「心の渇き」が、旅の道程と踊子との純粋な交流を経て内面の不純物が外部に排出され、心が透明になったことの視覚的な証なのである。
このカタルシスは、感情の解放であると同時に、精神の再生も意味している。
この文学的構成において、主人公の外界と内界は「鏡」のように映し合う関係にある 。物理的な水の流れは、主人公の心の流れを象徴している。
旅の過程で出会う、世間の偏見に晒される旅芸人一座や、病身の老人といった存在は、己の「濁り」「澱み」を映し出す鏡であり、それらに直面することで主人公は自らの心の奥底にある「渇き」を認識する。
そして、踊子という「水の精」に映し出されることで、彼は自身の内面の純粋な姿を発見し、心の渇きを癒す。
鏡としての踊子と水面
日本文化では度々水面は自己を映し出す「鏡」として象徴的に捉えられてきた 。「伊豆の踊子」では、この観念が主人公の自己発見の過程に巧みに織り込まれている。
踊子は、世間の偏見に晒されながらも 、驚くほど純粋で無垢な存在である 。彼女は「私」が失いかけていた、あるいは持てなかった「自然な姿」の象徴であり、疑いや軽蔑を持たない純粋な状態を体現している。
水面が外界の姿を映すように、踊子の純粋さが主人公の自己を映し出し、真の自己発見を可能にしているのだ。

パルファンサトリ スイレンとの接続
香りが導く内面の旅
一見何も関係がない文学作品の考察をしてきたように思える。
しかし本稿の中核に在るのはあくまでスイレンだ。
では何故私が今回、スイレンの世界観を語る上で水の象徴性を示したのか。
それはこの香りが持つリリシズムが、伊豆の踊り子の「私」の様に、自己に深い内省を促し新たな自己発見へと導くから。導く様に思えるから。
この記事の冒頭にも記したように、スイレンを香るとなぜか水面に佇む自分が思い浮かぶ。
涼やかだけども霧がかった情景、控えめな果実と白眉なスイレンのリフレクション。
そして踊子の様な純然で廉白な移ろいの中、愛に抱かれながら自ずと水面に己を投影することとなる。
ジャスミンやローズの余りの甘美さに、心の渇きが更に明らかとなる。無常の中でもがき苦しみ、それでも前に進む、生きるという行為そのものを香りに投影することとなる。
迎えるクロージングは何処か満ち足りて包み込むような、出逢いと別れが綾なす自己への肯定。
そんな形而上的な観念がスイレンには透徹している、そんな気がする。
精神の再生としての香り
川端康成は、旅という流転の形式の中に「水」という流動的な媒体を据えることで、普遍的な人間の孤独と回復の物語を描いた。
翻ってスイレンにおいては香りの移ろいという流転の中に「水」という己の内面を映し出す鏡が埋め込まれている。そして生きることへの煩悶を繰り返す中で、感情の解放と精神の再生へと導くのだ。
以上、万感を込めた筆致で語ってきたが、これがただの主観であるかどうかは定かではない。
けれども何処か己を清らかにしてくれるような、洗い起こして生まれ変わるような、そんな心地にさせてくれる香りだと、私は確かにそう感じる。
ニックネーム:Ryan
プロフィール:アトリエやポップアップにて接客をしておりました。現在は言葉の仕事をしております。
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