(一)紺と白のあわいに宿る、すべての色彩
紺と白の間に、全ての色調が詰まっている。
憂いに濡れる湿夜から、雌伏を讃える薄明まで。
暗澹とした深淵から、淡い七彩が分光する清澄まで。
全ての色彩は詰まっている。紺と白の間に。
人は何に心奪われるのだろうか。
何に対して、畏怖と畏敬の相剋する耐え難い情動を生むのだろうか、
それは決して豪奢な物物ではなく、寧ろその対極にある閑寂な「間」。
蓋し、そこに在る無にこそ言葉を超え人智に迫る、命の源たる脈動が宿っているのではないだろうか。
日本には古来より可視の物事だけでなく、その「間」に存在する不可視の要素に美を見出す独特の感性が存在する。この感性の中核にあるのが「間」の概念。単なる物理的な空白を指すものではなく、そこに流れる気配、空気、時間の感覚までを包含し、豊かな美意識として捉えられている。
しかしあまりに概念的であるが故、日常の些事にまで琴線を張らねば往々にして過ぎていくものばかりだ。
そこで本稿では幾つかの例を取りながら、この茫漠とした命題に対して切り込んでいこう。
(二)建築と宗教観に見る「間」のかたち
①建築における“間”
周知の様に、日本の伝統建築では障子や襖といった「柔らかい仕切り」が多用される。この「柔らかい仕切り」は風や光、人の気配を空間の中で緩やかに漂わせ、「余白」や「曖昧さ」をもたらす。加えて、明確に区切られた「部屋」ではなく、柱と柱で囲まれた空間を「間」として認め、この「間」で空間を繋ぎ、襖などを用いて間合いを調整することもその特異性の一つである。
対して、西洋建築の骨法として挙げられるのは空間を「囲い込む」スタイル。詮ずるに石やレンガで強固な壁を築き、内と外を明確に区切る様式である。
このように、一口に空間と言えども、様式の相違によって付される意味には明確な差異が存在する。
美学者の末利光(すえ・としみつ)は、その著書『間の美学-日本的表現』(1991年)において、「間」の意味を「時の間」「距離や面の間」「得体のしれない間」の三つに整理した。また、南博(みなみ・ひろしの『間の研究-日本人の美的表現』(1983年)では、「間の美意識は、時間的・空間的に切断された距離感が、独特の断絶によって創出された、時間でも空間でもない美意識である」と論じられており、この「間」と言う概念が単なる物理的な空白ではなく、幽寂な価値が生み出される場として捉えられていると認められる。
仏教における“無の有意性
日本文化に深く根付く仏教においては、この「無の有意性」が数多く語られてきた様に思える。(多少の撞着と齟齬を含むが)この「無の有意性」と言う思想は、日本人が「間」に対して積極的な意味を見出す美意識の間接的な源泉となっている。前述の潜在的な可能性や含意が宿る空間としての空間への美学は、この仏教的な「無」や「間」の捉え方が遠因となっているとも言えそうだ。
先述した日本の建築における「柔らかい仕切り」や「間」で空間を構成する様式に関して。これは物理的な空間が「曖昧さ」と「流動性」を生み出しながら、常に変化し、相互作用する「関係性」への考察によって育まれたものであろう。この物理空間における「間」の感覚は、時間や対人関係(「間合い」や心理的な距離感の調整)にも拡張され、日本人の空間認識に留まらず包括的な美意識や精神性へと昇華されている。この建築における「間」の在り方も、背景には日本人が太古より培ってきた宗教観、そこに紐づく「間」への哲学が埋め込まれているのだ。

(三) 白と藍──色彩のグラデーションが語ること
②紺と白のそのあわい
「間」への考察を深めた前項を引きながら、ここでは紺と白の間に宿る美学について暫し思案してみたい。
白という色彩
古来より日本では、白は神聖な服色とされ、天皇だけが白衣を着ることができたとされている。加えて、白い動物(白雉、白亀、白鹿、白鳥など)は瑞祥(吉兆)とされ、改元の契機ともされたそうだ。
一方で、日本において白は「死」や「虚無」と言った消極的なイメージも併せ持つ。例えば幽霊の衣服が白色で描写されていることや、生まれた時に白い産着を着せられ、亡くなった時に白装束を着せられるなど、白という色を基点として人生の循環を表しているとも換言できる。つまり清浄かつ神秘的であると同時に、日常着には不向きな特別な色とされていたのだ。
以上を集約すると、日本文化における白は、強固な二元性を持つと推察できる。この二元性は、「生と死」「始まりと終わり」「清浄と忌み」といった対極的な概念を内包しており、日本人の人生観や死生観、そして神聖観を深く反映している。白無垢が「無垢」な状態を示すと同時に、死装束も白色であることは、白が日常から切り離された「ハレ(非日常)」の色彩であり、特定の儀礼や神聖な場面でのみ許される特異な色であった事実を示唆している。白が持つ神聖性とその「穢れやすさ」「非日常性」への意識が、日本の色彩文化に深く影響を与えてきたという何よりの証左であろう。
次項では、そんな白色を基軸とし、藍色を対極に置いた濃淡の美について論稿を進めていきたい。
紺と藍染めの美学
藍染めは、植物の藍から採れる染料を用いて布を染める伝統技法であり、その青色は淡く澄んだ水色から、緑がかった浅葱色、濃く深い紺色まで「藍四十八色」と呼ばれる多様な色味を持つことで知られている。
この色の違いは、藍の品種によるものではなく、染液に浸す作業を繰り返すことで深い藍色を出していくプロセスによって生まれる。例えば、染色液にさらっと一回くぐらせた「甕覗き(かめのぞき)色」から、18回ほど染液に浸し、漸く発色する「紺色」まで、多彩な色調が現れる。
多少の飛躍は承知の上だが、この藍染めにおける「藍四十八色」というグラデーション表現は、「紺」と「白」の間に存在する無限の「間」を視覚化したものとも言えないだろうか。更に踏み込めば、日本美意識の中核をなす「曖昧さ」と「移ろい」の概念を具現化していると考えることもできるだろう。
これらの濃淡やグラデーションは、純粋な「白」と最終的な「紺」という二つの明確な色調の間に存在する、明確に区切ることの適わない「曖昧な」色彩の連続性を生み出し、染める回数や技法、さらには生地の特性によって、その表情を移ろわせる。その帰結として、一瞬たりとも、一度たりとも同じ表情を見せない生きた美が表われる。
これは二元論的色彩認識を超えた、「間」に内在する感覚的認知を寄せ付けない美の形であり、まさに「紺と白の間」に満ちる哲学と言えるだろう。
この「紺と白の間」は、単なる色の対比ではなく、その間に存在する無限の階調、すなわち「間」そのものを視覚的に表現している。日本文化が二元論的な明瞭さよりも、境界の曖昧さや変化の過程に美を見出す感性(曖昧さ、移ろい)を強く持っていることの現れであり、藍染めは、この「間」の哲学を色彩を通じて日常に落とし込んだ、生きた美意識の具象化であるとも言えよう。
【四】香りという余白、記憶という鼓動
③コンシロに満ちる、雅やかな「間」
さて、少々お堅めな文調で「間」とは何か、「紺と白」のあわいに潜む緩やかな麗しさについて考察してきた。
これらを踏まえ、「紺と白」の配色に着想の礎を求めたパルファンサトリのコンシロを香ってみたい。
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こんな事をふと思った。
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極めて澄み切った氷河
そのほんの一側面
人はちっぽけだから。
地球大のなだらかな放物線でさえ
当人にとっては不帰を匂わせる絶壁となる
重層な装いの中
袂を数センチ
手繰り寄せる
己の抱える不浄な業を
僅かでも払い落とせるような
そんな気がしたから
眼前の氷塊は
硝子を思わせる
張り詰めた緊張感ではなく
双眸が溶けて吸い込まれそうな
深い深い紺色
そっと掌を這わせ
素肌の心地を確かめ合う
鼓動を感じる
脈動とこだまする
情動が揺曳する
遥か遠くに感じる
触れることを拒むような
確かな生の律動
けれどそのあわい
生を満たす、赤色(せきしょく)のうねりが渦動を成して
漏れ伝わる
それすなわち浄の渇望
不確かな実存は見透かされている
俄の聳動により
曖昧模糊な信念は移ろい
白に溶ける…
人はちっぽけかもしれない。
けれど
だからこそ
身体の最奥に眠る美の移ろいを
言葉の及ばぬ感動で
満たすことができるのだ
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この香りは明確に、前面に、ではなく一体の柔らかさが包み込む慎ましい芳香。
確かな境界線の存在しない「間」に満ちた、耽美な世界。あなたの記憶の中にも優しく手を差し伸べ、気高い大輪を添える事だろう。
ニックネーム:Ryan
プロフィール:アトリエやポップアップにて接客をしておりました。現在は言葉の仕事をしております。