1.香りと美と旅と── 私なりの香水の楽しみ方
「現実の世界には限界があるが、想像の世界は無限である」
—— 哲学者ジャン=ジャック・ルソーのこの言葉は、私が香水の世界を愛する理由にぴたりと重なります。
香りという、目に見えない美しさ。
それは人の記憶と感情を呼び起こし、瞬時に五感を旅へと誘ってくれる不思議な力を秘めています。
香りが導く想像の風景
目を閉じて香りを嗅げば、イギリスの雨上がりの美しい庭園、乾いた海風が吹き抜けるイタリアの海辺。梅の香りに春の息吹を感じ、金木犀が運ぶのは秋の気配。
おしろいの香りには、母の温もりや幼少期の懐かしい記憶がよみがえり、土の香りには、手のひらで磨きあげた泥だんごの感触が甦ります。
香水は、現実の場所を超えて時間と空間を行き来できる、目には見えない旅のパスポートです。
現代社会はストレスと情報の波に満ちています。
仕事に追われて呼吸が浅くなり、SNSには真実と虚構が交錯した情報が溢れ、日々の思考がノイズに埋もれていく。
AIが瞬時に答えを導いてくれる時代――とても便利な一方で、私たちは自分で想像する力を手放しつつあるのかもしれません。
だからこそ、就寝前のひととき、静かな空間で深呼吸し、自分の内側へと向き合う「香りの時間」が必要なのではないでしょうか。
夜にまとう“苔清水”の記憶
たとえば、蒸し暑さが続くこの季節。
私は“苔清水”をまとうことで、清らかで澄んだ水の流れを想像しながら眠りにつきます。
その香りはまるで山の奥にひっそりと流れる湧き水のように、心を浄化し、日常の雑音から静かに解放してくれるのです。
「いい夢が見られますように」——
そんな祈りとともに香りに包まれ、私は心地よい眠りの旅につくのです。
2.香水との出会い・記憶の旅
遠い昔、私が化粧品会社に入社したばかりの新人時代——
街には、カルバン・クラインの“CK One”、ランコムの“トレゾア”、そして年上のお姉さま方が好んだ“プワゾン”の香りが、まるで季節の風のように漂っていました。
私も例に漏れず“トレゾア”を愛用していましたが、それは本当に好きな香りというよりも、時代の空気に流されるように、ただ西洋への憧れと流行に身を委ねていたように思います。
香水が自分自身を表現するものだと理解するには、まだ時間が必要でした。
時を経て、“ニッチフレグランス”という概念が日本に浸透し始める頃、私は一つの香りに出会いました。
それが、ラルチザン パフュームの “オ・ボードロー”——
モネの睡蓮と“オ・ボードロー”
印象派の巨匠クロード・モネが描いた《睡蓮》にインスパイアされた香水です。
水面に浮かぶ花々が、光の揺らぎの中で静かに息づいているあの絵の世界を、香りで表現するという挑戦。私はその芸術的なコンセプトに強く心を惹かれました。
この香水の発表会は、なんと美術館を貸し切ったそうでそのスケールに驚きました
そしてラストノートを決めるのは自分次第という自由な発想にも惹かれました。
“オ・ボードロー”は、トップノートにみずみずしいフローラルを感じさせながらも、ラストノートでは、静かな湖の底に潜むようなムスクが香ります。
その香りは単なる甘さや清潔感ではなく、光と影、水と空気の奥行きまで描いていて、私の嗅覚の世界を一変させました。
以来、私はニッチフレグランスに深く興味を持ち、香水という存在を「香りの工芸品」として尊敬するようになりました。
ブランドの理念、調香師の思想、そして香料や製法に込められたクラフトマンシップ——
そうした背景を知ることで、その香水が自分の手元に届いた瞬間、それは格別な存在になり供に寄り添い、人生という旅にでかけるのです。
今の私が昔と大きく変わったのは、「誰もがつけている香り」に魅力を感じなくなったこと。
流行に左右されず、自分自身の感性と響き合う香りを探したい。
まるで、シンデレラの物語に登場するガラスの靴のように——
自分の感性に“ぴたり”とはまる香水との出会いを求めて、私は今も旅の途中です。

3. ブランドのエスプリに触れる旅
「名香は敬意を払い、準備を整えてから関係を結ぶべき相手。そうすれば、それだけのものが必ず返ってくる相手なのだ。」
——ジャン=クロード・エレナ著『香水 香りの秘密と調香師の技』より
名香が語る歴史
若かりし頃の私は、シャネルやディオールといったブランド名そのものに憧れを抱き、ラベルの持つ響きだけで満足していました。
けれど、年月を重ねるにつれ、名香という芸術に触れるには、ブランドが歩んできた歴史や文化、名香が生まれた瞬間やエピソードを知り、その香水を纏うことで、背筋がピーンとなり思考までも変わり日々自信がつきやがて品格という花が咲くのだと思います。
ゲランの“シャリマー”や“ミツコ”には、愛や悲しみ、時代の変革が香りに織り込まれています。
“シャリマー”は、インドの庭園を舞台にした永遠の愛の物語、“ミツコ”は第一次世界大戦の悲劇的なロマンスに由来します。香りの背景にある物語を知ることで、香水は単なる匂いではなく、記憶と感情を伴う芸術作品となるのです。
“ミス・ディオール”の舞台空間
“ミス・ディオール”は、クリスチャン・ディオールの初めてのショーのために誕生した香水。
ドレスの仕上げとして香水をふきかけることで、“ミス・ディオール”はファッションそのものと一体化し、空間に命を吹き込みました。毎週1リットルもの香水が会場に噴霧されていたという逸話からは、香りが単なる“装飾”ではなく、“体験”の中心にあったことがうかがえます。
目を閉じて想像します ミス・ディオールが空気に舞う中、絹のドレスが揺れるショーの舞台。──今、時を越えて、伝説のショーの熱気の渦にいるのかも?
香水が私たちを過去と繋げてくれるのです。
ブランドに敬意を払う
たとえば、同じ素材で仕立てられた2着のCHANELのブラックドレスがあるとします。
片方にシャネルのエンブレムをつけるだけでそのドレスの金額は跳ね上がることでしょう。
あなたならどちらを選びますか?
「ブランドを買うという事はそのブランドが重ねてきた歴史に価値を払っている。
たとえ商品を模倣しても、ブランドの無形価値は真似することができないのです。」
∼教養としてのハイブランド~より
歩んできた歴史、香りに宿る精神性、ブランドの文化に触れる旅——それもまた、香水の最も知的で豊かな楽しみ方だと感じています。
後編「香水と自然、自己との対話へ」 :8月3日(日)午前11時 に掲載予定です。
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ニックネーム:PINK TAIL
パルファンサトリ認定・香水ソムリエ(上級)
香りジャーナル コントリビューター(寄稿者)
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